今 新品のパソコンでKURINIKARUPASUと入力して変換すると「栗に狩るパス」と出た。秋の味覚狩りの入園券のようで、なかなか風情があってよろしい。 翻って、パス関連の文献を読むに、バリアンス、アウトカム、エビデンス、グローバルスタンダードと、カタカナ外来語が目白押しである。これらは広辞苑(第五版)で調べても載っていない。 この段階で中高年(私もそうだが)医師は、看護診断でいうところの「言語的コミュニケーションの障害」(簡単に言うと「話が通じない」ということ)という診断が下される状態に陥る。 ましてや、クリティカルインディケーター、ベンチマーキング、コパスともなると、ちんぷんかんぷんである。私もたまにパスの講演を頼まれたりする。この辺りの質問がされはしまいかとヒヤヒヤするのが常であるが、大抵は院長先生クラスから「クリニカルパスとクリティカルパスはどう違うのですか?」なんて可愛い質問が出るので助かっている。この質問に対する私の返答は「違いにこだわっているエライ人もいるようですけど、まあ一緒でしょ、どうでもいいことです」である。 私はパス普及の阻害因子の一つに、このカタカナ語のオンパレードがあると思っている。昨今は官報までもが、カタカナ語だらけである。英語に堪能で国際的な有能官僚が作成されているためであろう。 そこで、私が密かに考えているのは、パス関連カタカナ用語の、理解しやすい(私たち、英語できない、時代遅れ?純日本医師のための)日本語用語集の作成である。もっと高齢の先生方からドイツ語版を作ってくれという要請があっても私には対処はできない。 さて、私が医師になった20年前頃には、パスはもちろんのこと、手術同意書も無かった。「すべて先生にお任せします。よろしくお願いします」であった。批判の多いパターナリズムの典型であるが、あえて言わせてもらえば、こう言われて悪い気がする医師はいないと思う。たとえ小手術であっても、若造の研修医に対して全幅の信頼を置いて下さったと思い、手術の夜はいつも病院に泊まったものである。 ▲ 山中 英治 先生 |
今、ありとあらゆる多くの同意書を渡してサインしてもらう時、何か心にひっかかるイヤな感じがするのは私だけであろうか。私は、インターネットなどで調べた多くの情報を元に、あれこれと質問されると、相手に一抹の警戒心を持って身構えてしまう気が弱い外科医である。私の母や妻が他科で手術をした際には、私は主治医に「すべて先生にお任せします」と言い、実際に心からそう思った。もちろん主治医は信頼に答えてくれた。 しかし、やはり説明は丁寧なほど良い。パスを用いた説明は詳細で丁寧かつ効率的である。「患者はみんな違うから画一的な治療はできない」という先生は、すべてオーダーメイドの服を着て、靴を履き、自分だけの特別製の車を運転しているのであろうか。 手術の際に、看護師から「阿吽の呼吸」で道具が手渡されるのは快感である。手術もスムーズに進行する。日本古来の「間の取り方が上手い」というやつである。これには多少の経験も必要だが、若くても臨機応変、気配り、目配り、心配りのできる有能な看護師もいれば、何年たっても、マニュアルがあっても、できない鈍感な人もいる。能力差はパスで解決できない。 私はメスは持つが剣は持たない。リレーエッセイということなので、次回はメスと剣道の達人、大和魂を持ちながら、電子カルテという最新の武器を操る近代人、黒部の今田光一師範に、私の疑問をバッサリと一刀両断にして頂きたい。
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